依存の先には夢も希望も幸せもない。

2019年8月28日心と身体

今日の雑談の中に、とある新興宗教の信者の話が出てきました。

新興というには、ばあちゃんの家のナフタリン臭い昭和感溢れる宗教(笑)

加入している人で幸せそうな人を見たことがない。

宗教では人は幸せになれないと見せつけてくれる、ある意味では非常に貴重な存在です。

宗教だけではなく、界隈も同じ。

界隈なんて、信者どころかエセ教祖さえ幸せになれてないから話にならない。

久しぶりにウォッチしたら、エセ教祖ツートップがど田舎の女子中学生連れションコントみたいな引退詐欺してるし、彼女たちのブログの引越先は相も変わらずアメブロで箱庭コントだし、お粗末すぎて失笑しかできなかったという…

かつて私がファンだった人たちが、ここまで情けなくダサくなってしまうもんかと思うと、ファンだった頃の自分をビール瓶で殴りまくりたい。

1ダースじゃ全然足りないし、なんなら殴って割れたビール瓶の破片で、過去の自分の節穴の目を突きたいレベル(笑)

もちろん、潜在意識の存在だったり、自分の本音を無視せずに拾い上げることの大切さだったりは今でもアリだと思っているし、その時期の自分には必要な過程でファンになっていたと思っているので、被害者ヅラする気はサラサラありません。

被害者ヅラしてる間は、次の慰めてくれる先を求めるだけで、カモのままですし。

薬物中毒者が売人を求めて彷徨うのと同じ。

もっと悪いのは、もう夢から醒めてるのに、そのことを認めないで、ひたすら同じ教祖にすがりつくこと。

教祖というより、教祖を崇めるコミュニティにすがりついてるという方が正解かもしれません。

そこから離れて、世間様の目から厳しく扱われて、ひとりぼっちになってしまって、自分が浸かっていた世界のおかしさに気づいて反省することが、本当の幸せに気づくステップの第一歩だと思います。

今の私は反省の真っ最中です。

おかげさまで、普通に健康で働けること、家族を始め数少なくても損得抜きに付き合える人の存在、お金をかけずに楽しめる趣味、といった日常に感謝できるようになってきました。

元々あったものに気づいて感謝するために、やたらめったら遠回りして燃費悪すぎですけど(笑)

あるものに気づかないで、自分にはないものばかり求めて不満ばかり募らせていると「依存」がウイルスみたいに自分の中に侵入して、どんどん幸せから遠ざかってしまう。

自分の中にある依存に気づくことが第一歩だとすると、エセ教祖がダサダサになってくれている今、信者卒業できる人が増えていい機会なのかもしれません。

平成が終わるまでに卒業できて命拾いした(笑)